人が育たない?

 仕事でちょっとしたトラブルがありまして。
 うちの職場では、渉外関係とか製作関係とかを私が全部やっておるのですが。それで、いつも通り印刷物の版下を作って入稿したわけですよ。

 それが昨日届いて開けてビックリ。とんでもない解像度の低さ、そしてスレだらけ折れだらけの仕上がり。速攻、流通に連絡して使用を差し止め、再生産の運びとなりました。
 で、その打ち合わせを今してきたんですが、どうも現場(印刷所)が話にならない。「簡易校正だからなかなか問題が見つかりづらい」「版下が統合されていたので修正できない」そうじゃないだろ! と! 簡易校正で問題が見つかりづらいから、刷り上がりを印刷所が責了で(目で)チェックして、問題ないことを確認してから納品するんだろう、と。版下が統合されていて修正できないなら、クライアントに一報入れて、バラ版を貰って作業を進めるんだろ、と。そこを面倒がって納品しておいて、クライアントからNG出されるのはプロじゃない。その上、それに対しそんな言い訳を言うのは論外にも程がある。

 当初、付き合いの長い印刷屋なので、(今まで私も迷惑掛けてきましたし)一度目を瞑って再生産の依頼をする予定でしたが、この態度を受け、金輪際取引をしない旨を伝え、速攻他の印刷所に入稿しました。

 結局、どうしてこんな幼稚なトラブルが起きるのかというと、現場の担当がいつもお願いしていたベテランさんから若手に変わったからだったりするわけで。その若い子には致命的に職人意識がないんですなあ。

 今の職人さんって職人じゃないんですよね。「職業職人」とでも言いましょうか。プライドがない。作業を淡々とこなす「人間版工場の機械」に成り下がっている。ルーチンワークをこなすなら、人間は機械に勝てるはずが無く、いずれ現場という現場から職人が駆逐され、オペレーターだけが居るようになってしまうでしょう。ルーチンワークで勝負するなら、ミスの少なさでは人間は機械に一生勝てまへん。その壁を越えることが出来るのは、機械の持ち得ない「ハート」の部分だけなんですけど。ハートを問われる場面に生まれてこのかた出会ったことがない人種にそれを問うのは酷なのかも知れません。

 今の印刷業界ってのは99%デジタルに支配されています。我々、デジタル黎明期に仕事を始めた人間は、上から口酸っぱく「デジタル(画面)を信用するな!」と教えられたものですが、我々より若い世代は仕事を始めた時にはデジタル環境が整っていたので、覚えたのは「機械(ソフト)を駆使するスキル」だけで、そこに絶対の信頼を置いている。機械ってのは時に裏切るモノですが、そんな想定がまるでない。我々には信じがたい話ですが、今のデジタル仕事をやってる連中は、プリントアウトして仕上がりを確認するということをあまりしません。うちの連中も私が出力を繰り返してると「そんな紙を無駄遣いして」みたいな目で見ますよ。プリントアウトすれば一発で見つかるような色斑を平然と放置しますし。指摘すると「そんな細かいこと言われても」みたいな顔されますし。漫画家とかでも「マシンが飛んでデータ消えたので入稿遅れます」とかさも「私被害者です」という体で連絡してきますが、私からすると「パソコンで作業する以上、トラブルでやり直した場合のスケジュールを見越して作業しろ」と言いたいところです。まあ、それを想定して、余裕のある締め切りを伝えていたりするわけで、結果何とかなるんですが…悲しい防衛本能。

 ルーチンワークだけで仕事してるから、トラブルに対応できないんです。トラブルが起きた場合の想定がまるでないから、トラブルが起きた際に対応できないんです。上の話で言えば、自分の刷ったモノがクライアントの商売に使われ、評価に影響するという認識がまるでないから、平然とスレ折れだらけの印刷物納品してくるんです。

 確かに、印刷物にスレや折れは付き物で、それを100無くすのは不可能(99.9999…に近づけることは出来るモノの、労力対効果という部分での妥協点がある)。そのために予備を付けるのであり、ある程度は許容すべき事なのですが、ただ、「その100無くすのは不可能」なものを「95なくす」ことは業務の範囲で出来ることであり、なおかつプロならばすべき事。それを70・80のまま放置してはクライアントが困るのです。クライアントが困ると、困るのは信頼を下げた自分の職場であり、その結果困るのは職場の評価が下がる自分なんですが、そういう感覚がまるでないんですな。我々からすると、そんなのは人間ではなく廃人ですが、今教育現場や家庭が社会にせっせと量産して送り出しているのは、そういう「廃人」と「廃人予備軍」であり、雇用者に求められるのは、教育ではなく「更正」ないし「廃人(砂)に埋もれた金を探す作業」なのですな。

 「会社の歯車」なんて事を言いますけど、私は彼らを「歯車」とは呼びません。廃人はどうあがいても歯車にはなれません。本当に歯車になれるのは職人気質のあるプロだけで、逆説的ですが、「歯車だし」みたいな逃げ文句を言う向上心ゼロの廃人には、到底歯車は務まらないんですよね。なぜなら、その人には「歯車は他の歯車と噛み合って初めて機能する」という意識はまるでなく、有るのは「俺なんてどうせ替えが利くし」というイジケ根性だけ。歯車のプライドがない。自分がダメになることで周りに迷惑が掛かるという想像力がまるでない。歯車が止まったら機械全部が停止するという自負がない。だから、歯車失格なわけです。

 上は印刷の話なのでピンと来ない人も多いでしょうが、世の中の仕事何でもそうです。郵便局の受付然り、コンビニのバイト然り。「自分の仕事ぶりで雇い主のイメージに影響が出るかも」という意識は皆無です。それはつまるところ、(解雇される事への)危機感がないからでしょうし、同期と競争させられて「半年後に使えない方をクビにするよ」みたいな状況にないからであり、そういった状況に置かないとリアリティを持てないのは、先ほども言ったとおり、プレッシャーに晒されないはこの中で育ってきて、いきなり社会に放り出されるからです。

 ただ、使う側にも問題がありましてね。そうした「量産型廃人」にプロトタイプとしてのクオリティを求めたり、向上心や客観性を求めたりしても仕方ないんですよ。根本の部分で理解できないので「何でこの人はこんな不思議なことを言うんだろう」とは思われても、そこで反省したり学習したりすることはまずありません。そうした反省・学習が出来るのは先天的にそうした才能を持った人間か、イレギュラーな社会環境の中で鍛え上げられた人間だけであり、更に言うとそうした「例外」の人は、言われるまでもなく実戦しているので、そうしたことを注意しなければいけない段階で、もう手遅れなわけです。

 そうした「手遅れ」人でも雇用しなければいけない義務が企業にはあり、そうした人を騙し騙しでも歯車として使っていかなければいけないわけで。ただそれは社内的な問題であり、その矛盾を外に漏らしては絶対にいけないんですよね。今回の印刷所のケースでも私が問題視しているのはそこで。結果としてそういうミスを犯すレベルの人間を、監督無しに現場に投入して、それを完成品として納品する会社なんです。そこさえはっきり反省してくれたら、今後もつきあえたんですけどね…。結局は無自覚な「歯車未満」を使った結果、クライアントを一つ失った、と。これで、その印刷所がなにかを得てくれると良いんですけどね。結果、その担当をクビにしたり、現場から外したりするだけだとねえ、ウチは「やられ損」です。いずれ、その若い担当個人からリベンジの申し出があると嬉しいのですが。勿論、今すぐ来ても門前払いしますけど。

 知り合いの編集さんにもよく「新人が使えない・育たない・残らない。どうすればいいか」と相談されますが、私は「どうしようもない」と思いますねえ。彼らは編集部に入れた段階で満足してますから、その中での目標はほとんど皆無ですし、同期の中で抜け出そうなんて気概もありませんし(むしろ目立って同僚から浮かないようにという緩い連帯意識ばかり)。まずそこをふまえることが大事です。そうしないと「じゃあ、そんな人間をどうやって使うか・使えるようにするか」という思考にたどり着けません。どうやって使うかは「どうやって自覚を持たせるか」「どうやって危機感を持たせるか」と同義であり、ウチのような零細企業なら、先天的にそれを持っている人間を捜して1人だけ雇用しますし、上記のような(人を余分に雇う)余裕のある職場なら、「二者択一」「三者択一」で「雇用してからセレクションを行う」のがベストなんじゃないでしょうか。まあ、その場合、現場と人事(ないし経営者)が同じ感覚を共有できていることが条件で、そうじゃないと選んだ「一番使える人間」以外を残したりして、結局現場にストレスだけが溜まっていく(私の感覚では、日本の企業はほぼ全てそんな状況ですが)。

 思えば、私は(先日ゲームのエントリで書いたとおり)大学を中退して背水の陣で仕事を始めましたし、同時に2人採用されて、そいつと競争させられましたし、直属の上司が酷く無能で(そのうえ理想家で)、反面教師に恵まれましたし、更にそうした上司を飛び越して私を徴用してくれるその上の上司にも恵まれましたし。幸せな「スタート」だったと言えます。勿論、向上心や競争心が人一倍強かったという自負はありますが、それ以上に環境に恵まれました。今の人では、そうした環境も「カツカツしてて息苦しい」「めんどくさい」で終わってしまう可能性がありますけどね。

 人を使う人間は「俺は保護者じゃねえ!」という叱り文句が定番の一つでしたが、これからは「俺は保護者だ!」というべきかも知れませんね。実の親が放棄した教育を代わりに施してやるのが上司の仕事。面倒な話ですが、そうでもしないと、結局、いつまでも後継が育たず、自分は楽にならないわけで。私もこれからは出来るだけ保護者の心で部下に接しようと思いますですよ。保護者ならフォローやアフターケアもそんなストレスになりませんし。そんな感覚で、ゆっくりひな鳥の成長を見守ろうと思います。

 あとは同僚に対しても「何でこんな事が(理解)できないの」とは思わないようにしようと、ここ2・3年強く自戒しています。数年前まではよかれと思い(一部では自分のストレス解消のために)それを伝えてましたが、結果は反発や拒否だけです。結局、先ほどの話ですが、そうしたことを言って理解してくれる人は、元から言う必要のない人なわけでね。「こんな事が(理解)できないから益々俺が重宝されるんだなあ」と思うように。こうした意識の置き換えが、30代には益々大事になってくる時代でしょうね。

 反面、そうした「村社会」で満足しないよう、対外的に尊敬できる先人・同世代を求めて、仮想敵にして競争するようにはして行かなければいけないし、して行こうと思っています。30代で向上を諦めることは「停滞」ではなく「後退」になりますからね。待ったなしの人生・年齢。頑張ろう。

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